弱いことは罪なのか。
弱いがゆえに力を求め、手に入れた力に溺れ依存するのは、はたして罪なのだろうか。
私はそうは思わない。
それを罪というのなら、それは強者の論だ。
肉体的に強い者
精神的に強い者
能力的に強い者
それらのいずれかに当てはまれば、それは強者だ。
そしてそれらのいずれにも当てはまらないのが、弱者だ。
初めから強者であった者もいれば、必死に努力して強者になった者もいるだろう。
だが弱者は、どんなに努力しても、必死で努力しても、弱者のままだのだ。
それは一種の才能のようなもの。
だが強者はそれを知らない。
努力知れば皆、強者になりえると信じて疑わない。
経験値を稼げばおのずとレベルが上がっていく。
現実はそんなゲームとは違うということを、根本的に理解していない。
だって自分は努力して強くなったのだから。みんな努力すれば強くなれるのさ。
そう論ずる。
だから強者は、弱者がインチキをすることを嫌う。
たとえば、道具であったり、薬であったり、ファンタジー的に言うと悪魔との契約であったり。
そうやって手に入れた力を振るう弱者をぶちのめして、強者はこう論ずる。
「なぜそんなものに手を出したんだ」
「なぜ努力をしなかったんだ」
わかっていない。
弱者を全くわかっていない。
努力しても越えられない、絶対的な壁があるから、外的要因に頼らざるおえなかったというのに。
それを卑怯だとのたまう。
いったい何様のつもりなのだろうか。
弱いことを、弱いままにしておけば、強くなれという。
何かに頼れば、そんなことをするなという。
じゃあどうすればいい。
決して越えられない壁に、死ぬまで挑み続けろというのか。
越えられないと思うから越えられないのだ。
必ずいつか越えられると思えば、きっと越えられる。
そう言うのかもしれない。
しかし「越えられると思えない」から弱者なのだ。
強者は弱者をわかっていない。
わかろうとするふりをしているだけだ。